絵空言 戯言

絵空言




戯言


すみません
自分でも 不確かなことを
もっともらしく 書きました







『君への 必要のない 置き手紙』


でも それは 昔から言い古されてきたことだし 文字としていくらでも残されている
実際 今でも大きな書店や図書館に行けば 関連書物も 無くは無い
(絶版になってしまったものもあるだろうし それらが正確な意味で読まれるか否かは 別問題だけど)

だから今更 中途半端な私がこんなことを書く意味もなかろうが
今の私の言葉にしてみるとこんな風になる


(・・・まー 実際 こんなこと書ける立場じゃないよーな気はするんだけどね 私は

それに たぶん 君は わかっているかもしれない
もしかしたら 私よりも


でも 一応 ・・・)









相対化され 初期化され 破棄されたすべての価値観

その向こう側へ

宇宙の行き止まり

その反対側へ

何故なら 私には 他に 何もないから
少なくとも 何も見当たらないから


けれども

そこへ 行こうと思っている私には 行くことが出来ない
意思するなら その意思が足枷になる
私が私である限り 其処には辿り着けない

認識されたすべての延長線は
その行き止まりで  断ち切られるから
認識の延長線を幾ら辿っても 辿り着けない

思考されるモノの中に それはない

私が私として 思考され 認識されている限りは 私は 私のままで

私が 人界でどれほど 成功しようと
此の宇宙で どれほど 成長しようと
一歩たりとも そこに近づいてはいない

辿れるような道は どの道堂々廻りで
そんな道の途中で 何かを望めば 何であれ いずれは 手に入ることだろう
但し そこで手に入るのは すべて 認識されたモノに過ぎない

自分の外に それはない
自分の内にも それはない

何であれ認識されたモノの内にそれはない

今の私の感覚からすると
それは すべての認識の 外だ

何故認識出来ぬ認識の外があるなどとわかるのか?
そのように問う人は 此の記事とは無縁の人だ
良し悪しや 進化の程度とか そういう問題では無く
単に 関係がない
趣味が違う   そんなところだろう

そう   それは たぶん 
文字通りに 宇宙の 外だ

そして それは 自我の 裏側でもある

『観る者は 観られるものである
制御する者は 制御されるものであり
思考するものは その思考そのものだ』

そして たぶん その先だ

自分というモノの  深奥は
宇宙の外に 繋がっている

そういうことのような 気がする





・・・君が見ている世界を私は知らない

だから この手紙は 君への
というよりは むしろ 自分への手紙 つまらぬ自己確認の筆跡なのかもしれないし
君にとっては 半分くらい意味不明かもしれない

けれども どうも 君の見ている世界が
(勿論 同じではないでしょうが)
私の見ている世界と何処か重なっているような気がするのです

こんな 私の曖昧な意味不明な手紙を読まずとも
今じゃない  いつか

或いは 此の瞬間に

君は 必ず そこに 辿り着くだろう

仮に 君が まだ そこを まるで知らなかったとしても

(辿り着く という表現が不適切なのはわかってる
それは 位相が変わるだけだから)

・・・いや だから 結局 何が言いたいのかと言えば

君の感覚は 間違ってない 
君のその感覚は とても大切なモノなんじゃないかと 私は思うのだ

たとえ 仮に それが いつの日か 君に不可避の地獄を見せるとしても
君は必ずそれを通り抜けて そこに辿り着けるだろうから

も少し言ってしまえば
君はこれからもいろいろ世間と折り合いをつけていかねばならないだろうが
私は君にその感覚を忘れて欲しくない
(勿論 君にとっては私にとやかく言われる筋合いはないし 実際 まったく関係ないわけだが ; )

ということ

でも そんなことは 君は もう自分で知ってるかもしれないし

逆に そもそもが私のまったくの思い違い勘違いかもしれないから


だから    
  
                 これは

                                   やっぱり


必要のない 置き手紙(笑)




テーマ:雑記 - ジャンル:小説・文学

  1. 2010/10/30(土) 12:48:51|
  2. 由無事