絵空言




思い出の続き


前回に引き続き、退屈な話です。

何となく、書いておきたくなったので、書いておきます。

別段、意味はないと思いますが。

ただの作り話かもしれません。




で まぁ 中学を卒業して
何だかんだで 二十歳くらいの頃だったでしょうか

私には 何やら イノチの流れが感じられていました

いつから感じ始めたのか
切っ掛けは何だったのか
切っ掛けが有ったのか否かすら 思い出せませんが

その頃 イノチは 流れ流れて 満たされていました
それだけは はっきり覚えています

流れが何処から来て何処へ行くのか
そんなことは知る由もありませんでしたが
ただ この流れに 沿うて行けば良いのだな
そう思っていました
結局 それは円環なのかもしれませんでしたが そんなことは枝葉末節で
要は その流れている という動きだったのでしょう

勿論 私は 自分が悟ったとも思っておりませんでしたし
実際 苦がなくなったワケでも
自我が消滅したワケでもありませんでした

相変わらずの喜怒哀楽はありましたし
相変わらずのチグハグな私がそこでジタバタもがいていたわけですが
イノチはヒカリとなって 流れに流れていました

それが世界を支えている
世界を意味付けている
そんな感じだったでしょうか

それは思考の産物ではなく
五感で捉えられるモノでもありませんでしたが
当時の私にとっては 極々当たり前の感覚でした

ですから 善悪もはっきりしていました
悪とは この流れに逆らうことで
善とは この流れに沿うことなのだと

竿立てて 逆らってみたところで
いずれは 押し流されてしまうでしょうから
悪などと言ってみたところで タカが知れているのでしょう

そう思っていました

その頃は それが余りにも当たり前で明白でしたので
過去の自分を忘れて 誰もが それ を知っているのだと思い込んでいました





・・・そうして

或る日 何かの折に 倫理学の本を読んだのです

「・・・一体 倫理学者たちは何を言っているのだろう? “この流れ” が 善悪を明確に定めているじゃないか」

そう 思いました

しかし どう読んでみても 学者たちには この イノチの流れが見えていないようにしか 見えない
善とは何か?
悪とは何か?
必死になって探しているのです
ああでもない
こうでもない
懸命になって論争しているのです

「・・・どういうことなのか?」

そこで 私は愚かにも考えてしまいました

「このイノチの流れの 論理的根拠は何処に?論理的証明は?」

私は中学生の頃から 思考というモノを 絶対視しておりました
思考が全てを解決するだろうと
神の存在も
宇宙の意味も
私の息する目的も

そして 薄々気づいてはいたのです

思考が 何を導き出さざるを得ないのか ということを

ですからその頃には思考に中毒することは 殆どなくなっていたように思うのです
まぁ 実を言えば その頃は 絶望と自己欺瞞が錯綜していて順序だった記憶などもないのですが

いずれにせよ そこで私は 
またもや思考に頼りました

イノチ というか ヒカリというか
その流れを 思考で捉えようとしたわけです

その瞬間 イノチの流れが 途絶えました

ヒカリが 消えました

それらは 記憶としては残ったのですが

それは 過去になり

現在からは 消え失せたのでした

何処をどう探しても 己の内にも外にも もう見つかりませんでした


世界は 鮮明さを失い

いつかの混沌に 回帰したようでした






当時のいろいろな事は 何が先で 何が後だったのか よく覚えていません
きっと そんなのは どうでもいいことなのでしょう

そして思い出のその後については

まぁ 書くのは止めておきましょうか

勿論 いつまでもそのままであったわけもないのですが
特に大きな変化があったということでもないと思いますから

そうですね
何と言うか 意識の終点間近と物質主義社会との狭間を
意識の焦点が 不規則に往復しつつ 現在に至る

そんな感じなのかもしれません


テーマ:雑記 - ジャンル:小説・文学

  1. 2011/07/22(金) 22:21:35|
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