絵空言




虚無空間~雪山にて~

風は確かに強かったし、吐いた息は霜になって防寒マスクを凍らせたが、実際たいした吹雪ではなかったのだ。が、その時、俺には地面と空間の区別がついていなかった。状況はホワイトアウトに近く、一面の白。一歩踏み出し、そして、落ちた。自分がすでに崖っぷちにいたことに全く気づいていなかったのだ。
前日に登って来た谷底まで400メートル。岩にぶつかりながら落ちていく。不思議と痛みはないが、骨が砕けたのがわかる。
なんてこったい、しくじった、畜生目、クソッ、これで終わりか?
そして衝撃。


気づくとザックを背負い、ピッケルを握り締め、アイゼンをつけたまま俺は横たわっていた。
雪の上に?いや、何だ?この地面は。何処だ?此処は。
寒くない。痛みもない。手足は?あ、動く。動くぞ?…おかしいな。…俺は死んだのか?目の前で自分の手を開閉しながら、そのまま呆然としている。
痩せた男が俺の顔を覗き込んでいる。

男「おや。客人だ。珍しいね」
俺「こんちは」
男「で。いつまで寝ているのかな?」
俺「…」

何処かで見た顔だ。憂鬱そうな、神経質そうな顔。…まさかねぇ?

俺「此処は何処ですか?」
男「虚無の畔(ホトリ)だよ」
俺「俺は死んだのかな?」
男「私にはわからないな。自分で決めたらいいんじゃないか?」
俺「そうか。なんか、まだ生きてるっぽいな」
男「…ふ~ん。そうなんだ。まだ生きたいわけだ、君は」
俺「どうかな?どっちかつうとそうなるかな?…ところで、あのー、すいませんが、あなたはAさんではありませんか?」
男「さぁ?そんなことはもうどうでもいいよ。…で。結局、君はまだ生きたいんだよな?じゃあ、君に言葉を贈ろう。…人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」
俺「…どっかで聞いた言葉のような気がするけど。でもさぁ、人生なんて、何にでも例えられそうじゃん」
男「なんか急に元気になったな。で、たとえば?」
俺「人生は、登山に似ている。行先ばかり見ていると足元を掬われる。足元ばかり見ていると、行先を間違える。」
男「人生に行先なんて、あるのか?」
俺「さぁ?あるんじゃねぇの?…人によるかもな。でも、まぁ、行先じゃなくてもさ、大切なものを見失う、とかなんとか、なんでもいいんじゃん?」
男「お前が、大切なもの、なんて口にするとは思わなかった」
俺「愛、でも、いいけど?てか、俺のこと知ってるの?」
男「此処に来るようなのはだいたい決まってるんだよ。で、他には?」
俺「ん?そうだな…。人生は、ヨットに似ている。 逆風の時は、行先を変えてごらん。 行先を変えたくないなら、斜めに、進んでみてごらん」
男「…それから?」
俺「え、えーと。それから…人生は、んーと。人生は、戦争に似ている。…敵が前にいるとは限らない」
男「……あぁ、あぁあぁ。まったく同感だ。そうなんだ。まったく、そうなんだよ」
俺「そ、そうなんすか?」
男「もう、いい。お前はまだ生きたいんだろ。そろそろ帰れ」
俺「でもどうやって」
男「こっちだ。この虚無に入れ。少しでも戻りたいと思っているなら戻れると思うよ。もしかしたらそのまま虚無に呑まれるかもしれないけど」
俺「そうか。まぁ、どうでもいいさ」

俺はアイゼンをガチャつかせながら、虚無に踏み込む。
そして、落ちた。


幅数十センチの岩棚に積もった雪の上に俺は突っ立ていた。下は靄の中に消えて見えないが、数百メートルの断崖の筈であった。見上げると数メートル上に稜線が見える。が、この垂直の雪の壁を登る技術は俺にはない。この岩棚に沿って行き、稜線上に這い上がれる所を探すしかなさそうであった。足下から崩れていく雪を気にしながら、俺は生きるための一歩を踏み出した。




         
  1. 2010/05/04(火) 23:49:54|
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